あゆみ

昭和二十五年、先代利晴は大工に始まり宮大工の修行の後二十四代続く後藤桂仙の元で社寺彫刻を始め、兄弟子の島桂堂と共に手足となり数々の寺院をてがけました。勉強家だった桂仙は、彫刻に限らず設計の資格を持ち自ら寺社の建築に携わりいかに建物を美しく魅せるかを学び無理に龍や獅子など具象ではなく その場に似合う意匠を取り入れてトータルバランスの取れた作品を作り上げていました。その中で暮らした先代も線の強弱や柔らかさにとても強い思いがあり、始まりがあり途中があり終わりがある。メリハリのある線を作ることが大事としてきました。桂仙より桂秀の雅号いただき桂仙の逝去後東京に出て数々の親方のもとで仕事し大工の経験と彫刻の融合で独自の形態をつくりだし昭和三十八年独立しその後、東京の立川市にて工房を立ち上げます。

昭和五十五年我が彫刻業の始まり。家業である社寺彫刻業をつぐために富山県の井波町の堀友二師の元へ修行に入り五年の修行を終え後藤流の父の元で仕事をする事となりました。手狭になってきた工房を現在の八王子市に移し活動を始めるかたわら関東周辺や新潟や伊豆、山形など時間を作っては神社やお寺さん、山車、屋台を回って上手い物があればとワクワクしながら見て歩いていました。すると何時からか初期の何も判らず巡っていたのとは違って何かが視えて来た。ただ彫刻物を造るのではない、線と影と裏を使ってより立体的にみせている衣の線が書家が書いた筆せんの線の様に見えてきた。その頃社寺の専門設計の先生と仕事をさせていただき虹梁の唐草文様も作り方ひとつでシャープでやわらかくなったりそうでなかったりなるものだと聞きおよんでいたことが間違えではないと確信し下絵を筆で描く様にしました。さらに下から見上げる事を想定して目の錯覚も利用してとかを知ることになると益々彫刻巡りが楽しくなり、今でも時々巡っています。

いくつもある見つけた風景によって人は作られるのかなと思ったり、隻手の音を聞く様に上手い彫刻の前で佇んで意識をそちらに合わせゆったりと何かを感じる事が出来ればいいなと思いますが、日々の忙しさの中仕事をしています。

仕える事、人人悉道器かな。

井上進一

あゆみ

昭和二十五年、先代利晴は大工に始まり宮大工の修行の後二十四代続く後藤桂仙の元で社寺彫刻を始め、兄弟子の島桂堂と共に手足となり数々の寺院をてがけました。勉強家だった桂仙は、彫刻に限らず設計の資格を持ち自ら寺社の建築に携わりいかに建物を美しく魅せるかを学び無理に龍や獅子など具象ではなく その場に似合う意匠を取り入れてトータルバランスの取れた作品を作り上げていました。その中で暮らした先代も線の強弱や柔らかさにとても強い思いがあり、始まりがあり途中があり終わりがある。メリハリのある線を作ることが大事としてきました。桂仙より桂秀の雅号いただき桂仙の逝去後東京に出て数々の親方のもとで仕事し大工の経験と彫刻の融合で独自の形態をつくりだし昭和三十八年独立しその後、東京の立川市にて工房を立ち上げます。

昭和五十五年我が彫刻業の始まり。家業である社寺彫刻業をつぐために富山県の井波町の堀友二師の元へ修行に入り五年の修行を終え後藤流の父の元で仕事をする事となり関東周辺や新潟や伊豆、山形など時間を作っては神社やお寺さんや山車、屋台を回って上手い物があればとワクワクしながら見て歩いていました。すると何時からか初期の何も判らず巡っていたのとは違って何かが視えて来た。ただ彫刻物を造るのではない、線と影と裏を使ってより立体的にみせている衣の線が書家が書いた筆せんの線の様に見え、その頃社寺の専門設計の先生と仕事をさせていただき虹梁の唐草文様も作り方ひとつでシャープでやわらかくなったりそうでなかったりなるものだと聞き間違えではないと確信し下絵を筆で描く様にしました。下から見上げる事を想定して目の錯覚も利用してとかが知ることになると益々彫刻巡りが楽しくなります。今でも時々巡ります。

いくつもある見つけた風景によって人は作られるのかなと思ったり、隻手の音を聞く様に上手い彫刻の前で佇んで意識をそちらに合わせゆったりと何かを感じる事が出来ればいいなと思いますが、日々の忙しさの中仕事をしています。

仕える事、人人悉道器。

井上進一

※ 枠内で縦スクロールができます

あゆみ
昭和二十五年、先代利晴は大工に始まり宮大工の修行の後二十四代続く後藤桂仙の元で社寺彫刻を始め、兄弟子の島桂堂と共に手足となり数々の寺院をてがけました。勉強家だった桂仙は、彫刻に限らず設計の資格を持ち自ら寺社の建築に携わりいかに建物を美しく魅せるかを学び無理に龍や獅子など具象ではなくその場に似合う意匠を取り入れてトータルバランスの取れた作品を作り上げていました。その中で暮らした先代も線の強弱や柔らかさにとても強い思いがあり、始まりがあり途中があり終わりがある。メリハリのある線を作ることが大事としてきました。桂仙より桂秀の雅号いただき桂仙の逝去後東京に出て数々の親方のもとで仕事し大工の経験と彫刻の融合で独自の形態をつくりだし昭和三十八年独立しその後、東京の立川市にて工房を立ち上げます。

昭和五十五年我が彫刻業の始まり。家業である社寺彫刻業をつぐために富山県の井波町の堀友二師の元へ修行に入り五年の修行を終え後藤流の父の元で仕事をする事となり関東周辺や新潟や伊豆、山形など時間を作っては神社やお寺さんや山車、屋台を回って上手い物があればとワクワクしながら見て歩いていました。

すると何時からか初期の何も判らず巡っていたのとは違って何かが視えて来た。ただ彫刻物を造るのではない、線と影と裏を使ってより立体的にみせている衣の線が書家が書いた筆せんの線の様に見え


その頃社寺の専門設計の先生と仕事をさせていただき虹梁の唐草文様も作り方ひとつでシャープでやわらかくなったりそうでなかったりなるものだと聞き間違えではないと確信し下絵を筆で描く様にしました。下から見上げる事を想定して目の錯覚も利用してとかが知ることになると益々彫刻巡りが楽しくなります。今でも時々巡ります。
いくつもある見つけた風景によって人は作られるのかなと思ったり、隻手の音を聞く様に上手い彫刻の前で佇んで意識をそちらに合わせゆったりと何かを感じる事が出来ればいいなと思いますが、日々の忙しさの中仕事をしています。
仕える事、人人悉道器。

井上進一

工房について

昭和25年先代利晴は大工に始まり宮大工の修行の後24代続く後藤桂仙の元で社寺彫刻を始め、兄弟子の島桂堂と共に手足となり数々の寺院をてがけました。勉強かだった桂仙は、彫刻に限らず設計の資格を持ち自ら寺社の建築に携わりいかに建物を美しく魅せるかを学び無理に龍や獅子など具象ではなくその場に似合う意匠を取り入れてトータルバランスの取れた作品を作り上げていました。その中で暮らした先代も線の強弱や柔らかさにとても強い思いがあり、始まりがあり途中があり終わりがある。メリハリのある線を作ることが大事としてきました。桂仙より桂秀の雅号いただき桂仙の逝去後東京に出て数々の親方のもとで仕事し大工の経験と彫刻の融合で独自の形態をつくりだし昭和38年独立しその後、東京の立川市にて工房を立ち上げます。

進一雅号桂信

人人悉道器

昭和55年(1980年)我が彫刻業の始まり。家業である社寺彫刻業をつぐために富山県の井波町の堀友二師の元へ修行に入り五年の修行を終え後藤流の父の元で仕事をする事となり関東周辺や新潟や伊豆、山形など時間を作っては神社やお寺さんや山車、屋台を回って上手い物があればとワクワクしながら見て歩いていました。
すると何時からか初期の何も判らず巡っていたのとは違って何かが視えて来た。ただ彫刻物を造るのではない、線と影と裏を使ってより立体的にみせている衣の線が書家が書いた筆せんの線の様に見え、その頃社寺の専門設計の先生と仕事をさせていただき虹梁の唐草文様も作り方ひとつでシャープでやわらかくなったりそうでなかったりなるものだと聞き間違えではないと確信し下絵を筆で描く様にしました。下から見上げる事を想定して目の錯覚も利用してとかが知ることになると益々彫刻巡りが楽しくなります。今でも時々巡ります。

いくつもある見つけた風景によって人は作られるのかなと思ったり、隻手の音を聞く様に上手い彫刻の前で佇んで意識をそちらに合わせゆったりと何かを感じる事が出来ればいいなと思いますが、日々の忙しさの中仕事をしています。仕える事

工房について

昭和25年先代利晴は大工に始まり宮大工の修行の後24代続く後藤桂仙の元で社寺彫刻を始め、兄弟子の島桂堂と共に手足となり数々の寺院をてがけました。勉強かだった桂仙は、彫刻に限らず設計の資格を持ち自ら寺社の建築に携わりいかに建物を美しく魅せるかを学び無理に龍や獅子など具象ではなくその場に似合う意匠を取り入れてトータルバランスの取れた作品を作り上げていました。その中で暮らした先代も線の強弱や柔らかさにとても強い思いがあり、始まりがあり途中があり終わりがある。メリハリのある線を作ることが大事としてきました。桂仙より桂秀の雅号いただき桂仙の逝去後東京に出て数々の親方のもとで仕事し大工の経験と彫刻の融合で独自の形態をつくりだし昭和38年独立しその後、東京の立川市にて工房を立ち上げます。

進一雅号桂信

人人悉道器

昭和55年(1980年)我が彫刻業の始まり。家業である社寺彫刻業をつぐために富山県の井波町の堀友二師の元へ修行に入り五年の修行を終え後藤流の父の元で仕事をする事となり関東周辺や新潟や伊豆、山形など時間を作っては神社やお寺さんや山車、屋台を回って上手い物があればとワクワクしながら見て歩いていました。
すると何時からか初期の何も判らず巡っていたのとは違って何かが視えて来た。ただ彫刻物を造るのではない、線と影と裏を使ってより立体的にみせている衣の線が書家が書いた筆せんの線の様に見え、その頃社寺の専門設計の先生と仕事をさせていただき虹梁の唐草文様も作り方ひとつでシャープでやわらかくなったりそうでなかったりなるものだと聞き間違えではないと確信し下絵を筆で描く様にしました。下から見上げる事を想定して目の錯覚も利用してとかが知ることになると益々彫刻巡りが楽しくなります。今でも時々巡ります。

いくつもある見つけた風景によって人は作られるのかなと思ったり、隻手の音を聞く様に上手い彫刻の前で佇んで意識をそちらに合わせゆったりと何かを感じる事が出来ればいいなと思いますが、日々の忙しさの中仕事をしています。仕える事